【ひっぴぃ★スペシャル2004 開かれた対話の場へ 初日:5月14日(金)】

私にとって「性的な暴力」と向きあうとはどういうことか

 はじめは「性的な暴力」という問題があることを知ったときのショック。なにも知らないでこられた自身の社会的位置の発見と、女性差別の存在にびっくり。
 ある時、わたし自身が参加するグループ内部でも性的な暴力の存在が発覚した。しかしこれに取り組もうとするとみんなしんどくなり、事実上そのグループは活動を停止してしまった。
 何回もいろんなところで性的な暴力は告発され問題化されてきたのに、いつも同じ事の繰り返し。誰かが場に来れなくなったり、場やネットワークが崩壊したり。
 性的な暴力の被害の告発は、無視されたり、逆に過剰に尊重されたりする。目の前にある具体的な事実に丁寧に向きあうのではなく、告発をしている人や告発されている人のことが、自分にとって大切かどうか、といった周りの人の利害関係で事態が進むことのなんと多いこと。
 性的な暴力の話は、本当に困難だ。みんな未消化で抱えているものが多すぎる。
 一般に「性的な暴力のサバイバーは感情的だ、サバイバーが感情的だから話がややこしくなる」と思われています。確かにそういう側面もあります。しかし私は、サバイバーを取り巻く周りの人のいい加減な態度こそが、サバイバーが感情的・強圧的にならざるを得ない事態を招く原因であり、話がこじれていく主たる理由だと考えています。
 ほとんどの男子は自身の持つ特権に鈍感だし、男性中心社会の仕組みを変えることに関心すら示しません。ほとんどの女子は、自身が直接に受けた具体的な被害以外では、被害者ではなく共犯者(もしくは「善意の傍観者」)として振る舞っていますが、そのことを自覚している人は多くありません。
 「性暴力」という言葉は、自分の持っている『男への怨念』をはらすために利用される事が実に多く、過剰に思い入れを持って使われる。そして「オマエはだれの仲間か」という踏み絵として使われ、つまりは権力争いの言葉にしばしばすり替えられます。その結果、性的な暴力が起きて、隠蔽され、サバイバーが孤立させられる現実のしくみ、「私たち」が今持っている文化や人間関係のあり方は、問われることなく温存されます。
 いつまでも同じ事を続ける訳にはいきません。女子も男子も、それ以外の人も、「私たち自身」が文化と生き方を変えない限り、性的な暴力と向きあうことは無理だと私は思います。

●参考文献(強く推奨)
『「サバイバー」と名乗った私の経験から考えたこと』
 「生と性はなんでもありよ!の会 プロジェクトQ」発行
 2004年 1000円
 http://projectQ.info/survivor/

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